例えば、ほぼ料理経験がなく、味覚も特に優れているわけではない人が、
料理をするときに、まずはレシピ通り作れ!
と思うんです。
野菜の声なんて聞いてる場合じゃない!
と思うんですよね。
野菜の声が聞こえるようになるには、
経験や知識が必要ですよね?
身体、特に動きの場合も同じでして、
自分の身体の使い方に問題を抱えているからこそ、
動きを良くしようとするんだと思うんですね。
私もそうでした。
で、そんなとき、
とにもかくにも、先生の指導を丸ごと受け入れて、
自分の判断は挟まない。
このときに上がってくる身体の声は、聞かない。
保留にしておく。
と言いますのは、
そもそも、その身体の声が正しいのであれば、
もともと良い身体の使い方だったはずなんですよね。
ですから、ここで感じる違和感は、
悪さが浮き上がってきていると受け取る。
私と先生は違うんだ・・・ではないんです。
日本舞踊を学んでいる時ですけど、
今でも鮮明に覚えていることがありまして、
それは、腕の使い方で、
先生は「力を入れたら、肘は伸びない」とおっしゃるんです。
けれど、
私は言われたようにやって、力もしっかり入れるんですけど、
「伸ばせるんですけど・・・」と。
で、先生は「マイムをしていて柔らかいからかな?」と
不思議だなという感じだったんですね。
もしここで、「そうか自分の身体はちょっと違うんだ」と思って、
見かけだけ、言われた腕の形をとるようにしていたら、
今の私はなかったと思うんですね。
その時は、どうしたらいいのか、さっぱり見当もつきませんでしたし、
そこから、どれくらいかかったかも、今となっては分からないのですけど、
その後、先生のおっしゃていることが出来るようになったんです。
(理屈も分かりました)
柔らかいからではなかった。
単に、出来ていなかっただけ。
力の入れ方を分かっていなかったんです。
他にもあります。
先生が特に力を入れているわけではなくやっていることが、
自分は力を入れないとママならない。
といって、抜いたら当然出来ない。。。
当然、身体の使い方が悪いわけです。
先生との身体の違いではありません。
あくまで、使い方の差です。
ですから、やはりその後、出来るようになりました。
と言った感じでして、
私は自分の身体の声を聞くということを、
正直どれくらいしていたのか?
そんなにしていなかったのかもしれないんですよね。
聞いていたのかもしれませんけど、
横に置いておいたんでしょうね。
何しろ、その声を受け入れて肯定してしまえば、そこ止まりですから。
極端に言えば、自分の身体を否定することから始まる。
で、否定はしているんですけど、希望は大きく持っている。
肯定してしまうということは、諦めなんです。
もちろん、何でもかんでも先生と同じことが出来るわけではないですし、
下手に同じようにしてしまいますと、
モノマネになってしまいますから、それは避ける必要がありますから、
どこかしらのポイントからは肯定しなければならないんですけど、
その肯定は、どちらかと言えば、
「受け入れる」だと思うんですね。
自分としては、これでエネルギーが通っているから、
先生とは同じではないけれど、「これで良いはず」「仕方ない」
といった感じかと。
「守破離」の「破」に入った感じでしょうか?
最後に。
「守」あってこその「破」ですけど、
「守」は、ただ言われたことを真面目にやるのではダメなんです。
どうやったら、「守」が出来るか?を探るんです。
その意味で、本当の「守」には「破」が内在されているわけですね。
上手に、「守」を。です。