内と外というものを考えてみますと、ガラスでも何でもいいんですけど、中が空洞の球体があるとしまして、もしどんな小さな穴でも、穴が開いていましたら、内側と思っていたところも、外とつながっているわけですから、
ぜ~んぶ外側。内というのはありませんでしょ?
内が存在するには、完全なる遮断が必要というわけです。
さて、この球体を人間だとしますと、内側というのは内面になりますでしょうか?
アイデンティティーということばが、どんな意味を持つのか、正確には分りませんけど、もし内面すなわち球体の内側だとしますと、アイデンティティーの確立というのは、完全なる遮断が必要ということになるんでしょうかねえ?
そして個の主張というのは、完全に遮断した状態を保ちつつ、このガラスの球体の内側、中を、ガラス越しに見せようとすることなんでしょうかねえ?
揉め事、起きやすそうですね。
で、まあそれでも揉め事が起きないようにと、お互いの中を、ガラス越しの内側を、認め合いましょうとなるのでしょうか?
確固とした個人の確立と、お互いの個を認め合う努力・・・
ところで、球体に穴が空いていると、どうなるんでしょう?
つまり、内も外も無い、曖昧な個人。
お互いがこんな風に、穴空き球体ですと、厳密には、自分とは別の個というのは存在しなくなりますでしょ?
自分の内は外であり、別の人の内でもある。
ですから、穴を大きくして、一見自分というものを無くせば無くすほど、自分は外そのものになり、別の人の内そのものに、近づく。
なんとなく、昔の日本人のよう・・・アイデンティティーなんてことばが無かった頃の・・・
あの人は私であり、私はあの人であり。
これ、悪く捉えますと、例えば、世間ばかりを気にしたり、「で、あなたはどう思うの?」って、聞きたくなるようなことに、なってしまいますけど、良く捉えますと、いわゆる
私たちはひとつ
という状態。
相手が人でなくても、自然でもなんでも、完全遮断球体として接するのか?穴空き球体として接するのか?
必要に応じて、自在に穴を閉じたり開いたりって、できたらいいような気がしますね。
いや、そうではなく、穴の大きさを限り無く大きくすることで、穴だけの状態といいますか、何も無い状態、つまり、内と外が完全に一体化してしまった状態。
これを意識的に作るのが、理想でしょうかねえ?
赤ん坊みたいです。
愛そのもののような・・・宇宙と一体化している、芸術的存在。
道は遠そうです・・・はぁ~。。。