ピアノの鍵盤は、ドはドの音、レはレの音が出ないと困りますでしょ?
たとえ、テキトーに弾いているふうでありましても、ドでもレでもない音をって、いい加減に2つの鍵盤を同時に叩いて、なんてこともありませんよね?
それに、ミでもファでもいいやってことも、基本的にはないと思うんです。
いずれにしましても、明確な意思をもって、どの鍵盤を叩くかを決めているはずです。
なにせ、音が語らないといけないんですからね。
ところで、身体表現の場合はどうでしょう?
身体が語らないといけないはずですけど、ピアノのように、ドの音を出そうとしている時、本当にドの音だけを出すように、していますでしょうか?
ド以外のミだかシだか分からないような音が、混じったりはしていないでしょうか?
意識の行きやすい、何か意味あることを表現しているどちらかの手や顔は、ドの音を出していたとしましても、もう一方の手や2本の足、さらには胴体、それらは別の音を出してしまっては、いませんでしょうか?
もっと言いますと、もとのドの音(意識の行っている手や顔)も、本当にドの音でしょうか?調律のおかしい、ドらしき音になってしまったり、していませんでしょうか?
肉体といいますのは、かなりいい加減なものでして、自分のイメージ通りには、動けていないものです。
ドを出しているつもりでも、人にはレに聞こえたり、なんだか全く分からない音に、なってしまってりと・・・
身体表現なんて、大袈裟なものに限らず、日常生活でも、ありますでしょ?
本人は優しく笑っているつもりが、嫌味な笑いをしているように、とられてしまったり、のようなこと。
これが、マイムのように、動きの1つ1つに具体的な意味を持たせている場合ですと、致命的になってしまうと思いませんか?
しかも、顔だけのことではなく、全身のこととなりますから、それはそれは・・・どれだけのことか、想像に難く無いと思います。
両手、両足、頭に胴体、指先まで含めまして、何故そこで、そのポジションをとるのか?何故その角度なのか?何故そのテンションなのか?
明確な理由と意思に基づき、適格に動く身体で表現しませんと、伝えたいものが伝わらない・・・
身体表現のために、柔軟性や筋力をアップさせることよりも、今ある身体を適格にコントロールすることが、まずは大事だと思うのです。
ただ、逆に言いますと、今ある身体で、より優れた身体表現が可能、ということにもなりますでしょ?
希望はありますね!
語れる身体に!