習うことは簡単。
学ぶことは大変。
習うは受け身。
学ぶは能動的。
習うということは、形やシステムなどを覚え真似ること。
学ぶということは、その形やシステムにならしめる見えない力を見つけ出すこと。
習ったことでは、応用発展をさせることは出来ない。
学んだことは、応用発展させられる。
習ったことを他に活かそうとすると、誰の見た目にも分かる形で現れる。
学んだことを他に活かしたとき、どこに活かされているか普通には見抜けない。
多くを習っても、知識が増えるようなもの。
多くを学ぶと、知恵が発揮できる。
ひとつの分野を習うことは、ひとつの分野でしかない。
ひとつの分野であっても深く学ぶと、他の分野のことが分かってくる。
教える際に、私はこのあたりのことが、とても気になるんです。
なるんですけど、生徒に「習うんではない!学べ!」と言ったところで、
それは出来る人には当たり前に出来るでしょうけれど、出来ない人には難しいんです。
ところで、教える側が「教える」という姿勢でいますと、
教わる側はどうしても、習うという姿勢になってしまいやすいと思うんです。
習う側、学ぶ側の問題ではなく、
教える側が「教えられる」と思っているところに問題があるわけです。
教える側が出来る事は、あくまで
「あなたは自分では分かっていると思っていることが、実は分かっていないのよ」
を分からせるようとすること。
(分からせることではありませんね。どこまでいきましても、分かる分からないはその人自身のことですから、他人は何も出来ませんでしょ。
自分が分かるという行為を、他人に代わりにしてはもらえませんものね。)
それは決して否定的な意味ではなく、
分かっていないということを分かることが、分かることの一歩目になるからなんです。
ただし、言葉だけで分からせようとすることは、非常に難しい。
体感してもらうしかないのです。
それも、ただ分かっていない、出来ていないということを体感させたのでは、
ネガティブな気持ちになってしまいますから、
分かりそうな感じ、出来そうな感じ
というものを感じられるようにし、分かったら、出来たら、楽しい、面白いだろうという希望が見えるものにしなければ、と思うんです。
そして大事なことは、他の人との比較ではなく、さっきまでの自分と今の自分との比較。
少しでもその希望に向かっている気がすればいいと思うんです。
習うということは、結果を重視しやすい。
学ぶということは、過程に喜びを見い出しやすい。
習うということは、自分の外に先生を見つけること。
学ぶということは、自分の内に先生を見つけること。
嬉しいことに、JIDAIマイムクラスのクラス生のみんなは本当によく学んでくれます。
素晴らしいっ!